「マーケティングの目的は販売を不要にすることだ」に感じるちょっとした違和感
1990年代後半、多くの企業がウェブサイト(当時はホームページを作るという言い方をしていた)を構築に乗り出す時代がありました。
そこから技術の進歩だったり、ハードウェアの高性能化、通信速度の高速化によってインターネットの活用方法は大きく変化しています。
従来であれば一部の大企業しか利用できなかったようなシステムがここ数年のクラウド化の流れのなかで小さな事業規模の事業主であっても利用可能になりつつある事はこのコラムを興味をもってご覧いただいている読者の方であれば理解してもらえると思います。
こんな流れの中で、マーケティング・オートメーションといわれるサービスがクラウド型のサービスとして提供されており日本でも一昨年あたりから流行しつつあります。
そんな背景からマーケティング・オートメーションとは何なの?という解説をした記事も注目を集めていたりしますが、ではその大元にある「マーケティング」という用語の定義についても諸説入り乱れていて良くわからないという方も多いのではないでしょうか。
大学やMBAの授業で配布されるテキストや指定参考図書にはドラッカーのこの言葉が紹介されているケースを多く見受けることができます。
「マーケティングの目的は販売を不要にすることだ」
偶然の巡り合わせでとしか言いようがないですが、ここ数年マーケティングの重要性が謳われ、直近ではマーケティング・オートメーションがブーム化、このタイミングでマーケティングに興味を持った方々にとって「販売を不要に」と「マーケティング・オートメーション」の認識を巡って導入現場で混乱を起こしているケースがあるようです。
特にご自身の会社がBtoBの分野であれば「販売を不要にすることだ」と言われても違和感があるのではと思います。
著者なりにこのあたりの考え方で納得できる表現を模索した中で、腹落ちしたものがありますので紹介してみたいと思います。
マーケティングを勉強するなかで必ず名前が挙がる人として、「セオドア・レビット」は異論の無いところかと、彼の業績の内容は勿論のこと、その意図や独特のスタイルでも有名な方なわけですが、そのものの見方は、レビットの少年期の育ちが影響しており彼の実用主義は必要から生まれたものという指摘があり、レビット自身が少年時代について書いたものとして以下のようなものがあります。
「田舎の少年時代の生活は......(彼と兄弟に)物事の道理についての好奇心を植えつけ、-また現実に働くことの苦労と利益の意識を植え付けた。そこから、効率、節約および価値に対する大きい尊敬の念が生じた。物事をやりとげるためのより簡単、迅速、容易、低廉な方法を見付けることは、常識に理解できるようである。とくに両親がそのような事柄を重視し、言い聞かせていることを自ら実行している場合には、そうである。」(注1)
ここで述べられていることはBtoB企業におけるマーケテイング諸活動が集約されていると思うのですがいかがでしょうか?
参考文献
注1:ロバート バーテルズ:マーケティング学説の発展(1993/9)